プロポーザルを書いてますが、まだ完成しないうちから迷っています。
確かにプロポーザルはこれまで何度も出してきました。採択されたこともあるし、不採択だったことも何度もあります。選考する側の経験も積んできてそちらの事情も理解しています。
なのに、毎回怖いんです。
不採択だったら傷つくかな、評価低かったらどうしよう、今回は通らない気がする、とか。ぐるぐる考えて、「経験あるのになんでこんなに怖がってるんだ」って、自分に自己嫌悪します。
で、ふと気づきました。
これは自分自身にダブルスタンダードをしてしまっていると。
もし友人や仲間がプロポーザル悩んでるってきいたら
とてもいいね、まずは書いてみようよ。結果どうあれ「ナイスチャレンジ!」って言いますよね。
自分が選考するときに採択できなかったときは、「本当にご応募ありがとう。採択叶わずで申し訳ない」って本気で思っています。
そう、採択には理由はあるけども不採択には理由あないんです。もちろんさまざまな要因はあるものの。テーマの食べ合わせ、枠の数、他の応募との兼ね合い、タイミング、審査員との相性、いろんな要因があります。
これ、何度も選考してきたから、構造として理解しています。頭ではわかってる。経験としても知っている。
なのに、自分が出す側になった瞬間、全部忘れます。不採択 = 自分はだめだった、みたいに感じてしまう。何度経験しても、この感覚は消えません。
内省
考えてみたんですが、たぶんこれ、視点の非対称性なんだと思います。
レビューする側にいるときは「構造」が見えます。要件、タイミング、他の応募との比較、審査基準、いろんな要素が見えています。 でも応募する側になると、見えるのは「結果」だけ。採択かそうでないか。○か×か。
その○×が、自分の価値そのものに見えてしまいます。これは認知の歪みなのですが、毎度毎度頭をよぎります。大切なものほど、失う恐怖で歪んで見えるんですよね。本気で出したいと思っているからこそ、怖い。 経験は、構造の理解を深めるけれど、恐怖を消してはくれませんでした。
気づいたこと
自分に問いかけてみました。「もし今の自分が応募してきたら、レビュアーの自分はどう思う?」かと。
先ほど書いたように採択叶わなかったときには、「本当にご応募ありがとう。採択叶わずで申し訳ない」と思うわけです。
じゃあ、自分が応募するときも、そう考えていいんじゃないでしょうか。そして仲間に言うように、自分にも『ナイスチャレンジ』って言ってもいいんじゃないでしょうか。何度目でも。
経験は、恐怖を消さない
今回もまた別の機会も、きっと怖いと思います。
でも見方を変えると、そういう怖さを感じるのは、本気で向き合っている証拠なんだということです。どうでもいいことには、人は恐怖を感じません。
経験は、恐怖を消すためにあるんじゃない。恐怖との付き合い方を教えてくれるものなんだと思います。 そして、励まされたい時は励まされていいし、助けを求めていいんです。
このように自問自答しつつも、最終的には踏み込めると思います。なぜならずっと前から先達のこの言葉に励まされてきたからです。
あなたの思いを伝えられるのはあなただけです。 トークに成功すれば賞賛が得られ、失敗すれば教訓が得られます。 失うものは何もなく、得るものしかありません。 深呼吸してトークに臨んでください。 Happy Talking!*1